自分で言うのもなんですが、僕は普段はとても温厚な正確です。
それでも日々仕事をしていくなかで、理不尽な要求をされたり、見当違いなクレームを入れられたりすると、「イラッ…」とした感情が鎌首をもたげることが少なからずあります。
この「イラッ…」とした状態から、本格的な「怒り」の感情へ発展しまうと、暫くの間その後のパフォーマンスに影響してしまうので、むかっ腹が立ってしまったとしても、その段階で感情をストップさせるようにしています。
そこで今日は僕が日々実践している「イラッ」と感じてしまってから更にひどい「怒り」へ感情を移さないための方法を紹介してみます。
自分の感情を客観的に観察する
イラッとした時に、まずは冷静に自分の感情の揺れ動きを俯瞰するように観察すると、その後「怒り」の感情に発展することが激減します。
どういうことかというと、「イラッとする」と主観的に考えて感情に振り回されてしまうと、その後の「怒りを感じる」という段階に移行しやすくなってしまいます。
それを防ぐために、少しでも「イラッと」感じてしまった瞬間に「ほうほう、どうやら僕はイラッと感じているらしい」と自分を俯瞰して観察してみるのが効果的です。
不思議なもので、自分の感情を客観的に見つめてみると「君はなんでイラッと感じているのかね?」とか「どうして相手は君を苛つかせるような言動や行動をしたのかね」という視点が出てきます。
そこで浮かんできた自己問答を突き詰めていくと、結局のところ「自分が感じたイラッとした感情は、自分なりの妙なこだわりに端を発しているものかもしれない」だとか「相手の虫の居所が悪かったのかもしれないし、こちらの対応も悪かったのかもしれない」という答えが浮かんできたりします。
その答えが出てきた時点で、あら不思議。
「イラッ」とした感情はいつの間にか薄れて、心が穏やかになっている自分に気づきます。
自分の感情に操られる奴隷ではなく感情の御者となる
以前、鬱病を発症し会社を退職した時に、瞑想の本とか、より突き詰めて原始仏教の本とかを大量に読んで実践していたことがあります。
その時の本の一冊に、スリランカ仏教会の長老であるアルボムッレ・スマナサーラ氏が書いた『心がスーッとなるブッダの言葉』という本があるんですが、その中の1節が心に残っているので引用してみます。
欲や怒りが生まれたときに、「これは欲だ」「これは怒りだ」と気づくこと。これをパーリ語で「サティ(気づき)」と言います。
欲や怒りが生まれると、人間はものが見えなくなり、感情に駆られて正常な判断ができなくなります。
それをおさえるには、まず自分がそういう状態であると認識することです。それがサティです。
そして日頃から感情に操られる奴隷ではなく感情を操る御者となるように、訓練を積むことです。
『心がスーッとなるブッダの言葉』より引用
本当にそのとおりで、感情に駆られると普段は冷静に判断できていたものが簡単にできなくなってしまいます。
一度その状態に陥ってしまうと、あとはズルズルとその感情に引きずられてしまい、厄介なことになってしまうんですよね。
だからこそ日頃から自分の感情を客観的に観察して、感情が暴走しないように(感情の奴隷にならないように)、感情をうまくコントロールする(感情を操る御者)となる訓練が大事です。
他にも本書には以下のように心の安定を取り戻すきっかけとなる言葉が載っているので「なんか最近もやもやするんだよねー」という人は一読の価値ありです。
心に入る情報をありのままの姿として捉えて概念=想念にふりまわされないようにすることができれば、それが心の唯一の治療法です。
悩みはすべて自分の心が作り出していると知ること。
自分の心をよく観察して、間違った想念を取り除くこと。
俗世間で「生きる意味」とか「目的」とか呼ばれているものは、実際にはどれも単に「生きているからやっていること」にすぎないのです。
「社会の歯車」という言い方がありますが、人間一人ひとりは、歯車でさえない。
せいぜい水道の蛇口を締めるときに使う、ゴムのパッキンくらいの存在です。
自分の人生をあまり大げさに見る必要はないのです。
まとめ
ひとたび自分の感情に振り回される状態に陥ってしまうと、リカバリーに時間がかかったり、無駄に体力や気力を消耗してしまいます。
いつもより自分の感情の動きに敏感になって、冷静に自分の感情を見つめられるよう努力を続けることで段々と負の感情の振れ幅が小さくなり、色々と楽になっていきますよ。
以上、【「イラッ」と感じてから「怒り」へ感情を移さないための方法】でした。